「世界を平和にする!」を貫く海賊は、計画性があるようでない、行動しながら考える人

「やばくなったら前を見る。けど、先は見ていないです」

脇坂知典(わきさか・とものり)さん

大学生のころに自分の進路を考えたとき、「俺が世界を平和にするんだ、世界平和が夢と書いてあったら頭おかしいですよね」と、脇坂知典(わきさか・とものり)さんはなごやかに話はじめた。このあと物腰のやわらかな、その姿からは想像できないような、刺激的な言葉をたくさん聞くことになった。

公認会計士としてキャリアスタート

大学卒業と同時に公認会計士という道を選んだ。とにかく何かスキルを身につけたかった、資格と会計士としての経験がほしくてチャレンジ。はたして一発合格。「一回目で合格できて超ラッキーだった」と、脇坂さんはほがらかに笑う。

会計士としてのキャリアは、仕事がきついと言われている会社に行けば、いろんな仕事をさせてもらえるだろうと、期待に胸をふくらませてトーマツでスタート。海外で働きたかったから英語を使うセクションがいいなと思っていたら、金融と英語という二重苦の世界で希望者が少ない国際金融部という存在を知る。本流の人から見たら、ヤバいところだ。でも「誰かがやってくれるといいなと思うんじゃなくて自分がやる」から、志願した。

当初から会計士のキャリアは、5年を一区切りに考えていた。日本の会社でちゃんと働くという自身の目標でもあった。どうせ5年で辞めるなら、ギュッと凝縮した経験を積みたかった。会計士の仕事は意外と楽しかったものの、ずっと続けていく気はなかった。先が見えていることはしたくないからだ。

人は見通せることしかできない。見えないからおもしろいのに。そこで、本当に自分がやりたいと思っていることが楽しいかどうか試そうと思い、大学院へ行くことにした。「国際協力をやる人たちは大学院を出ている人が多いらしいぞ」と聞いて。

順風満帆の社会人スタートだったが、脇坂さんは心の底に常にくすぶり続けていた「世界を平和にする」という自身のテーマを忘れることはなかった。世間では安定した士業で知られる会計士としてのキャリアもスッパリと捨てて、イギリスの大学院へ留学することにしたのだ。

紛争解決学を学ぶ

1年で学位が取れる大学院を探した。あるじゃないか、平和学! 「もしかして自分のやりたいことに近いんじゃないのかな?」と思って、紛争解決学を専攻する。

1年後に無事学位を取得して帰国。やりたいことはあるが「やりたい仕事は何か?」に具体的なイメージがなかった。それこそ国連? JICA? NGO? と選択肢がわいては消える。さらに、「アカウンティングアドバイザー」や「ファイナンシャルアドバイザー」という職種ばかりにオファーがくる。やりたいのは平和学や紛争解決という分野の仕事なのに。世の中、思ったとおりにいかないもんだと感じながら「もうボーッと本当に28、9歳ぐらいのときは1年間ただただ無職で過ごしました。実家で」と爽やかに笑う脇坂さん。

そして1年間のロングバケーションを経て、満を持して世界平和を実現するべく動き出す。日本紛争予防センター(NGO)へインターンとして入り、半年後に職員になったのだ。

NGOの活動は主に、途上国の内戦後の人々の生活向上と、さらにその次世代の子供たちの未来に期待が持てるような世界を実現することだった。やりがいを感じていたが、その取り組みは、外の人たち(NGO)によるファシリテーションで成り立っていた。内戦で争った土地でも実際には相手のことを知らないこともある。だから自分たちが持っているイメージのみで相手を非難する。だったらまず実際に会って自分の目で相手を見て話して知りましょうと、かつて殺しあった世代の大人たちではなく、まずは子供たちの世代から交流を始める。子供たちが仲良くしている姿を大人たちが見て、大人たちの和解促進、相互理解を深めるプロジェクトを進めた。もちろん意味はあると思っていたが、ここで限界を知る。

「何か変なきっかけがあったときに、やっぱり元に戻っちゃう。たぶん将来の生活にあまり期待が持てないから。自分もそこにいたら期待が持てないと思うんですよね。外の人たちに〝イベントをやるからおいで〟と言われたりしても」

開発コンサルから日本企業の海外展開コンサルタントに

そこで、現職のアイ・シー・ネットへ、開発コンサルタントとして転職をする。かつてNGOで経験したボトムアップのアプローチでは自分がイメージする長期的な視点での平和には届かないと感じたが、現地政府のプロジェクトを通じて政府の仕組みづくりから支援するトップダウンであれば、波及効果が大きいだろうと思ったからだ。しかし、産業振興国などで人材育成に携わってみると、たとえ計画通りに進んで現地政府も満足して、実際に効果も出ていると言われているプロジェクトであったとしても、長期的にみれば続かない。しょせんプロジェクトには終わりがある。数年後に調査をすると、案の定、ほぼ壊滅。すでに外部からのお金も外からのアドバイザーも来ない。

「援助プロジェクトって、要はお金をあげるというプレゼントじゃないですか」とシビアに言う脇坂さん。

プロジェクトのお金が止まるとそこで何もかもが終わる。金の切れ目は縁の切れ目。これも続かないなと感じて同社を辞めようと思った。興味が持てないから。そんな矢先に社内で「民間の仕事」をする話が持ち上がった。民間会社を立ち上げ、その時に関わる新興国の人たちがお金を払ってでも買いたい、あるいは必要とするサービスをちゃんと提供する仕事だ。

「〝買いたい〟とか〝使いたい〟ってすごく価値があるサービスですよね。民間企業を中心に現地の人たちが本当に必要としているものができあがっていく。その仕組みってすごくいいなと思って、今やっていることにだんだん近づいてきた感じですね」

経産省の補助金事業を運営する事務局を設立し、中小企業やベンチャーの新興国への展開支援もスタートしたばかりだ。

「いまこの瞬間、やりたいってことはいつもあるんです」と脇坂さんはおおらかに言う。

世界平和への思い

これまで脇坂さんの話を聞いていて、ふと思った疑問をぶつけてみた。

なぜ、世界平和なのか? いったい何がきっかけで、そんなことを考えたのか?

脇坂さんは、2歳から小学校にあがる直前までシンガポールで過ごし、中学2年〜3年の間の2年間を香港で過ごした帰国子女だった。世界平和を意識したのは、中学生になって新聞を読み始めたときだ。記事で中東のイスラエル・パレスチナの紛争を知ったのがきっかけだった。

「もし、自分がパレスチナなどの紛争地で暮らしていたら、今の自分は平和がよいと思える一方で、今の自分とは違う環境にいたなら、平和がよいと思えない自分もあり得る。 今、紛争地で生きていて怒りに染まっている人たちも、環境が異なれば、平和がよいと思える人たちも多いのだろう。そこで、世界の多くの人が戦争よりも平和の方がよいと思えるような世界にしたいな、という思いを持つようになりました。これがきっかけで、世界を平和にするような仕事に将来つきたいな、と決めました」

思ったのではない、決めたのである。

そして、香港の英語塾で出会った恩師についても語ってくれた。脇坂さんの人格形成に大きく影響を与えた人物だ。大柄で目つきの悪い長髪オールバックのギラギラした30代半ばくらいの男性だったと言う。見かけの押し出しもさることながら、本気の大人との初めての出会いだった。

「めっちゃわがままで、生徒のことも蹴ったりするし、塾長と喧嘩して揉めたりもしてる人ですが、自分が正しいと信じたことは譲らない人でした。そして、ほかの人が何を言っているかなんて気にしないで、自分が何をしたいのか、するべきだと考えているのかを考えて、行動(勉強)しろ、とややスパルタ気味に教える先生です。なんか、自分のやりたいように好きなように生きている、この先生は好きでしたし、この人はやべー、マジだ、なんか本気でやるのがかっこいいと思いました」

それまで周りの大人たちを醒めた目で見ていた脇坂少年には、衝撃的な出会いだった。本気でやるならもっとわがままにやりたいように生きていこう、周りの人がどう言っているかなんて関係ないと思い、いまの性格ができあがったのだと言う。

「やり直したいことはないんです」と脇坂さんはふわりと言った。

世界平和とビジネス

最後に、目下の活動について聞いた。

「カンボジアで農業をやったり、食品衛生基準を作ることを今まさに提案中で結果が出るかどうかドキドキしています。次は出向かな。現地で会社をまわす、わくわくします。行ったらなんとかしますよ! 失敗すると思って行きません。根拠はありません。俺がいくしかない、俺がやるしかないんです」

やりたいことが仕事になっている人はブレない。

3年間くらい中小企業を支援して、実際に現地で育てて、大きくしていくこと。命がちゃんと続くために……。

本記事は「海賊ライフ」より転載したものです

こちらの記事は、「海賊ライフ」の海賊図鑑として、2018年にインタビュー記事が公開されたものを、海賊ライフのウェブサイト閉鎖に伴い、許可をいただき転載しています。

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